ユヴェン卜ス—イギリス風趣味の老貴婦人

イギリス風趣味の老貴婦人であるユヴェントス

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「老貴婦人」ことユヴェントスがピンクのユニフォームを捨て、今では世界中で知ら れる白黑ストライプを着ることになつたのは、イングランドでの間違いのおかげだ

1897年11月1日、13人の学生がトリノのベンチに座り、多種目のスポーツクラブを作ろうとしていた。年齢14〜17才だった彼らは、クラブを「スポーツ•クラブ•ユヴェントス(ユヴェントスはラテン語で若者の意)」と呼んだ。サッカーのユニフォームはまだ簡単に手に入らなかったので、最初はピンクのシャツにネクタイ (または蝶タイ)と黒いゴルフズボンでブレーしていた。

だがこのシャツは質が悪く、すぐに使われなくなる。 1903年、彼らはイングランドのクラブ、ノッティンガム•フォレストに、クラブの赤いユニフォームを送ってくれるよう頼んだのだが、話がちょっと混乱し、イタリアに送られてきたのはノッツ•カウンティの白黒スト ライブのユニフォームだった。だがユヴェントスはそれを「攻撃的で力強い」と思い、以来、ビアンコネロ(白と黑)を着てブレーしているのである。

実ユヴェントスは強くなった。1923年7月24日、自動車メーカー、フィアット社の創業者ジョヴァンニ•アニェリの息子、エドアルドがクラブを買収。これにより、ピエモンテ州の上流階級と、トリノを本拠とする フィアットの工場で働き、クラブのサボーターでもある南イタリア出身の労働者たちが連帯し、ユヴェントス を「イタリアの恋人(La Fidanzatad’Italia)」に押しあげることができたのだ。なお、クラブは1945年にユ ヴェントス•フットボール•クラブと改名している。

ユヴェントスはイングランドとの特別な関係を忘れていない。2011年の新スタジアムのオープニングに、ノッ ツ•カウンティFCを招待した。相手はイングランドの3部リーグのクラブだが、この機会を祝って親善試合を行ったのである。白黑ストライブを贈ってくれたことへの、なんともエレガントな感謝の示し方だった。

すべてを出し尽くしたプラティニ

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1987年5月17日、傷みの目立つスタディオ•コムナーレにつめかけた3万人のファンに別れを告げてから、シェル・プラティニは新たな地平へと歩みを転じた。ユヴェントス対ブレシアの試合はエキサイティングで(3ー2)、よい思い出になったが、彼は長いキャリアの間に身につけたユニフォームをどれ1つ持って いない。「ユヴェントスで最後に着たのすら持ってないよ」と、2007年1月26日にUEFA会長に選ばれた元10番は言う。「本当に1枚も残してないんだ。残らず友だちやチャリティ団体に贈った。少しはお金になるからね。あと、若い頃にユ ニフォームが欲しいと言ってくれた大勢の人にもプレゼントした」。

だが、プラティニは他のものはいくつか大事にしている。「実は、持っているのは 丸みのある立体的なものだけでね。3度もらった欧州最優秀選手(1983〜1985 年)のバロンドール•卜ロフィうちの2つとか。1つはアニェリ会長(プラティニ在籍当時のユヴ3:ントス会長ジョヴァンニ•ア二ェリ、2003年1月24日逝去)の家にある。

2つはうちにあるよ、娘と息子に1つずつね。ある日、アニェリ会長に聞かれたことがある。「これは本当に金でできているの?」ってね。「どうかしてるんじゃないですか?本物の金だったら絶対差しあげませんよ!ただ金色をして蚤だけです」と答えたんだけどね。そうしたら、会長がプラチナ製の をくれたんだ。あと、取ってあるけど丸くないのは、自分がかかげて走った1992年アルべ—ルヴイル•オリンビックの火の卜一チだけだね。あれはまだ持ってるよ」。

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